―― それは今よりも少し前のお話・・・・ Bagatelle "Fur Elise" ・・・・ポンッ・・・・・・ 「あ」 耳を掠めた音に香穂子は振り返った。 「どうしたの?香穂ちゃん?」 ジャンケン遊びをしていて数歩前を行っていた友達が何人か不思議そうに聞いてくる。 「うん・・・・なんでも」 ないと言い返そうとした時 ――・・・・・・・・ポロンッ・・・・ (また。) 背にして歩いてきた校舎の方から聞こえた音。 この音を香穂子は知っている。 (ピアノの音だ。) 「かーほーちゃん?どうしたの?」 一番香穂子の近くにいた友達が近くまで戻ってきて聞いてきた。 「音、聞こえない?」 「え?音?何の?」 「ピアノ。」 「??聞こえないよ?」 「今は・・・・」 ――・・・・・・・・ポンッ・・・・ 「あ!ほら、また!」 思わず香穂子は声を上げたが、予想に反して友達はきょとんとしたように首を傾げていた。 「?何も聞こえないよ?」 「ええ?」 香穂子は目を丸くした。 こんなに近くにいる友達に、こんなにハッキリ聞こえる音が聞こえないという事なんてあるんだろうか。 しかし香穂子が首を捻っていると、またピアノの音が聞こえる。 ・・・・・ポロンッ・・・・ 「聞こえるんだけど・・・・」 「?よくわかんないけど、ピアノの音が聞こえたって別にいいんじゃない?誰か弾いてるのかもしれないし。」 そう言われて香穂子も確かにそうだと思う。 学校で放課後にピアノを触っている子は少なくない。 だから今日もその誰かが弾いているんだろうし、今まで香穂子はそんなピアノの音に興味をもった事はなかったのだけれど。 「・・・・・ごめん!先に帰ってて!」 言うなり香穂子はランドセルの肩ひもを両手で掴んで駆けだしていた。 「ええ!?」 友達の驚きの声が追ってきたけれど、香穂子の耳に聞こえるのは校舎から聞こえてくるピアノの音だけだ。 不思議なほど、その音ははっきりと聞こえてそれを追いかけるように香穂子は走る。 ――・・・・・・・・ポロンッ・・・・ポン・・・ポロンッ・・・・ 背中でランドセルがガチャガチャ鳴る音がじゃまっけだった。 校門を潜って講堂に向かって走るうちに少しずつピアノの音がハッキリしてくる。 もう何を弾いているのか、香穂子にもわかるほどだ。 曲名は思い出せないけれど、有名な曲だと姉が話していた曲。 けれど有名な曲でテレビかなにかで聞いたことがある曲なのに、今は全然別の曲に感じるような気がした。 今、香穂子の耳に届いているピアノの音は、歌っていた。 深い深い音でピアノが歌っている。 高くなったり低くなったり音の上下を繰り返しながら。 「は・・・はあ・・・はあ・・・・・」 息を切らせながら香穂子は講堂の横についている通気用の小さな窓までたどり着く。 そして壁に貼り付くようにしてそっと窓を開けて・・・・ 初めて質感を持って耳に飛び込んできた音に息を飲んだ。 (すごい・・・・) 先生が弾いているんじゃないかと密かに思っていたピアノの前にいたのは、大人ではなく香穂子と同じ位の少年だった。 顔はあまり見えないけれど、指だけは香穂子のいる所から見えた。 魔法のように鍵盤の上をうごき、次々に音が生まれていく様が。 旋律はうっすらと聞こえていた時と比べ物にならないほどの力で香穂子を包み込んでいく。 力強く、それでいて繊細な音色。 時に浮上し、時に沈み・・・・気まぐれでありながら全てが美しい旋律。 寒くもないのに全身に鳥肌がたって香穂子は思わずぎゅっと手を握りしめた。 (すごい・・・・きれい・・・・) 上手いのかどうかも香穂子にはよく分からなかったが、そんな事は関係なかった。 ただ聴いていたくて。 旋律が力強いものになると、少年の背中が力を込めるように揺れる。 そのたびに音が変わっていく様に香穂子は息を詰めて聴き入る。 強い強い歌声のような旋律が次第に収束していく時には思わずため息を零した。 そして、とうとう最後の一音を残して・・・・音が途切れた。 ―― パチパチパチパチッ 静まった講堂に響いた拍手の音に、ピアノの前にいた男の子とその友達らしい少年達が驚いた顔で振り返る。 しかし、驚いたのは実は香穂子も一緒だった。 (拍手しちゃったっ!) 音が途切れた瞬間、思わず手を叩いていたのはほとんど反射だった香穂子は慌てるけれど、不思議に叩いている手は止まってくれない。 気がつけば香穂子は一生懸命手を叩いていた。 たぶんそれは香穂子が生まれて初めて本当の意味で拍手をした瞬間だった。 驚いたような顔をしていた少年達は笑ってピアノを弾いていた少年に何か言う。 それを聞いた少年は少し困った顔をして香穂子を見て。 それから少し照れくさそうに笑った。 その顔を見た途端、香穂子はぱっと踵を返して走り出していた。 「あっ」っという少年の声が聞こえた気がするけれど、構っていられなくて。 校門をとびだす所まで走り抜けた香穂子は、そこまできてやっと止まって講堂の方を振り返った。 そしてちょこっと首を傾げる。 (???なんでだろ、ドキドキする。) そっと押さえた胸の中で、何かとんでもない宝物を抱きしめているように心臓がドキドキいっている。 (へん、なの。) さっきの旋律が耳に残って静かに静かに響いていた。 (・・・・帰ったらお姉ちゃんに何ていう曲か教えてもらおうかな。) 「うん、それがいいよね!」 元気よく呟いて香穂子は駆けだした。 甘く美しい旋律と、生まれて初めて抱いたドキドキと。 ―― ピアノの前に座る少年の姿を胸の奥に大事にしまって・・・・ 〜 Fine 〜 |